皆さんはピアノの「調律師」という職業をご存知でしょうか。
僕が初めてその存在を知ったのは今から6年ほど前のこと。
当時カメラよりギターを持ち歩くことが多かった僕は、このピアノの調律師を母に持つベーシストと知り合い、そんな職業が在るのかと驚いたものでした。
先日、とある新宿の高層ビルの一階ホールに置かれているグランドピアノに向かう、エプロン姿の男性に目が留まりました。
「お、あれはもしや調律師さんでは?」と、そろそろと近寄り「少し観ていて良いですか?」と話しかけてみました。
しばらく見学させて頂くと、その迷いのない手の動きはまさに匠。
まるで往年のクラシックカメラを的確に修理作業する技師をも見ているような感覚であり、次第に尊敬の眼差しで魅入る自分がいました。
彼は幾度も鍵盤を指で叩き、僅かな音の差を調節していくのですが、後に問うと全て耳の感覚だけとのこと。
確かに辺りには音を合わせるチューナーの類は無く、有るのは調節用の特殊器具のみ。
「あぁ、なんて素敵な職業だろうか」と、感心するあまり写真を撮らせて頂くのを少しの間忘れていました。
ようやく「お邪魔はしませんから」と許可を頂き何枚か気になる所を撮影しました。
この繰り返される作業が、シャッターを巻き上げてはレリーズし、その幕速が適正か否かを耳で判断するベテラン技師となんとも重なるのです。
(さっきからカメラ修理技師ばかり引き合いに出しスミマセン;写真人なもので・・・)
最後に礼を言って立ち去ったあとで「これは近いうちに、じっくりと撮りたいな」と、新たな題目の発見を嬉しく感じたのでした。
いつ頃からかはっきりとはしませんが、カメラが自身の五体同様の存在であると認識できてからと言うもの、所謂”匠”と呼ばれる職人姿に強い関心を覚えるのです。
例えば、老舗クリーニング屋のアイロン掛けや畳を作る職人然りです。
何にも言えることかもしれませんが、やはり興味を持つということは、それだけで誉めれたものだと感じており、それと何を持ってどのように対峙するかを考えたとき、自分にはカメラが在るわけで、これは大変に幸せなことなのだと想うのであります。
さて、撮りたい(作りたい)テーマがどんどん揃っていきます。
仕事を言い訳にせず、その合間にしっかりと作品を完成させねば、と、今日も自分の尻をポンと叩いてみるのでした。
自分が子供の頃、”公務員になることが誇らしいことだ”との、妙な風の噂に幼いながら疑念を抱き続けていました。
様々な選択肢や可能性があり、夢を”目標”と呼べるのだと言うことを息子には伝えていきたかったりします。
【少年よ大志を抱け!】という名言が存在するわけですが、これには二面性があり、誤った解釈のままでは”抱くだけ”になると考えます。
これは僕なりの解釈ですし、長くなるのでまた別の機会に書くとしましょう。
ユーチューバーが職業と呼ばれ始めた辺りから、何となく子ども達の思考に変化が出てきた気もしますがね。
まぁ、履き違えないようにサポートするのも親の役目でしょう。
うわ、今日の僕、ちょっぴり大人じゃん(笑)
オーゼキコーキ
【本日の一枚】