200years:

-ozekikoki-

幼稚園~小学校までの担任の名前

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RICOH GR3 + GW-4

最近はお陰様で日々を忙しく過ごせているわけですが、カフェで休憩でもしようものならば一気に頭が瞑想モードへと移行し、今日なんて自身の幼稚園時代からの小学校6年までの歴代担任(先生)を思い出す遊びを始めてしまいました。

 

■幼稚園時代■

・沼田先生

いつもポロシャツの上に赤いトレーナーを重ね着しているのが印象的な女性。

最も多かったポロシャツのカラーは”からし色”で、ウサギの抱き方が下手だった僕に正しい持ち方を教えてくれたのだが、それでも上手く抱えられず結果的に僕は後ろ足で手首を引っ掻かれてしまった。

その時の申し訳なさそうな先生の顔を今でも覚えている。

 

■小学校■

・谷地先生(1~2年)その後に結婚して一戸先生へ

入学初日には給食の食べ方をユーモア溢れる動きと表情で教えてくれた女性。

パンと牛乳、またパンと牛乳はダメで、途中でしっかりスープとおかずも挟まなくてはいけないと教卓の前に立って演じていた姿が印象的・・・

と思ったが、違うなぁ。

クラスにはテツオというどうしようもなくドジな男の子がいて、何度も何度も学校にランドセルを忘れて家へ帰る事にとうとう谷地先生が激怒し、ある日の授業中に「お前はこれが要らないのかぁー!!!」と、2階の窓からテツオのランドセルを凄い剣幕で捨てようとする姿の方がよっぽど印象に残っている。

 

・松倉先生(3年)

スラっと背が高く痩せ型の優しい女性。

きっと根っからの温厚な性格なのだろうけど、ある時から何かが吹っ切れたように厳しく勇ましい態度で僕ら生徒に接するようになった。

急な変化に驚いたが、きっと彼女に対してナメた言葉を使う生意気な生徒が増えてきたことにより他の先生へも相談していたのだろうと思う。

子どもながらに松倉先生の一生懸命さが伝わってきて好感を持っていたが、図工の時間に僕の描いた”宇宙と宇宙人”という傑作に対し「ん~びみょ~」という感想を述べたことが印象的で、当時けっこう凹んだりした。

 

・赤坂先生(4年)その後に結婚して松田先生へ

こういうのも変な話だが、思い返すと歴代担任の中で一番の美人で几帳面な性格の女性であり、吹奏楽部の顧問。

そもそも僕が3年生の頃から「君は良い歯をしているから絶対にトランペットが上手くなる!吹奏楽部にいらっしゃい!」と、長期間勧誘されていた。

4年に上がり赤坂先生が担任になるのだと知ったときは、これから3年間、僕は吹奏楽部で興味もないトランペットを吹き続けるのかと愕然としたものだが、ちょうど当時は松井や清原、高橋などなどスター揃いの読売ジャイアンツが流行っていた頃で、割と悩んだがきっちりと先生に「僕は野球部に入ります」と伝えた。

とても残念そうな表情だった・・・が事件は起こる。

年に1度の学年別美術コンクールの際、クラスで僕だけが居残りさせられ、来る日も来る日も毎日、とっくに描き上げたはずの絵の手直しを命じられた。

完全に僕は吹奏楽部に入らなかった事の復讐をされているのだと、途中からメソメソ泣きながら描いていた青空の色を水を含ませた筆で薄くしては拭き取り、答えの見えないまま別の青へと塗り替え、やがてボロボロになった画用紙に残った空は独特な曇り空となった。

結果的にその絵は学年で金賞を獲っただけじゃなく、県の教育美術賞とやらまで頂く事になった。

その後に赤坂先生が直接話してくれたのだが「コーキは自分が絵が得意なのを良い事に適当に描いて雑に色を塗っていた。私はそれが許せなかった。出来るのにちゃんとやらないのは先生は大嫌いなの。でも、泣きながらでも一緒に残って描いて良かったでしょ?」

たぶん当時先生が僕に言ってくれた事はほぼ再現できていると思う。

実はこの時の赤坂先生の厳しさや審美眼に加え、表現する事への執拗なまでの凛とした拘りには今でも感謝と尊敬の念を抱いている。

もしあの時に吹奏楽部へ入っていたら全く違う人生だったかもしれない。

 

・蔦林先生(5年)

この時に初めて担任が男性になった。

南こうせつに似ていて、おまけに学校へ自前のアコースティックギターを持ってきており、朝と帰りには先生の演奏に合わせてクラスみんなで歌った。

礼節の面でとても厳しく何度も怒られたけれど僕は蔦林先生が好きでしっかり言う事を守ったが、掃除をサボる癖だけはどうしても抜けなかった。

つい最近の話だが、職場に居る女性が撮影の御礼にと、どうしてもお菓子か何かを僕に贈りたいというので「それじゃあ、これっっっくらいのをください♪」と、手を大きく弧を描き広げつつも、最終的にはチロルチョコくらいのサイズに指先で丸を作るという動作で大いに笑ってもらえた。

この動きネタは蔦林先生から教わったもの。

先生、ありがと、大人になってからもあの教えは役に立ってるぜ。

 

城前先生(6年)

歴代の中で一番年上の女性。

「で、あるからして」「したがって」が口癖であった。

真面目で厳しくも優しい性格だったが、なぜか今思う事は「その後、無事に結婚できたかなぁ」である。

 

これらを全て思い出し終えた頃には注文したアイスコーヒーも空になり、午後の打ち合わせへと向かいました。

 

どうであれ、今日も誰かの元生徒たちが街を行き交い、それぞれの人生と向き合いながら仕事をしているのだなと尊く思えたのでした。

 

オーゼキコーキ

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