200years:

-ozekikoki-

初秋の郷愁

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いつも、自分なりのこだわりに従いつつ、季節を迎え入れている。

中でもこの秋は最も斜に構えた特徴を持つ。

謂わば”懐古主義”というやつか、いや、森の木々ですらお洒落をする季節なのだから、もう少し色を付けた表現で『ノスタルジア』とでも呼んでみる。

 

毎年この秋口にはそんな自分の一面と対峙するのだが、これ自体は多かれ少なかれ共感する人種も居るとは思う。

 

ただ私の場合は少々身構えて迎える必要があり、この時期に顔を覗かせる感情とは適度な距離を保つように心掛けている。

でなければうっかり自らの内面の溝に足を取られてしまうからだ。

簡単に言えば”感傷のお浸し”にならないように気を付けているという事。

 

だのにそれも含めてこの季節が年に一度の楽しみでもあるから、我ながらたちの悪い気質であると思う。

結局のところ、私はこの時期に随分と苦難が重なる星の下のようである。

 

さて、そんな心情が起因しているのか定かではないが、毎年この秋風を鼻から胸いっぱいに吸い込むだけで、やおら芸術家ぶろうかと様々な記憶を反芻し始める。

 

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雨雲と追いかけっこをする電車に揺られながらも、そうした追憶は続く。

こういう”物思いにふける”時間を「くだらない」と吐き捨てる者もいるが、アスリートが常日頃から身体を傷めないようにと、念入りなストレッチをするのと似たものがあると私は思っている。

 

こうやって私の様な考えるタイプの人種はリラックスしているのだ。

更に言えば「頭のストレッチ無くして、この後に遭遇するであろうシャッターチャンスにどう反応できようか!」

というところである。

どや、ダサかっこよかろう。

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実際にはちょっとやそっと歩き回った程度でドラマティックなシャッターチャンスなどにそう滅多に出逢うことはなく、大概は眼に映る情景の中にある機微を捉えようとシャッターを切るだけである。

ゆえに自分にしか理解できないディテールだけが写ったカットが私のPCには山ほど詰め込まれている。

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急な話をするようだが

生まれ故郷の青森に居る90を過ぎた祖父が現在危篤である。

電話で様子を聞いた限りでは痛みに苦しんでいる事はなく、既に意識のない中で静かに眠っている状態とのこと。

 

孫として当然に込み上げる想いも在るが、ご存じの方もいる通り昨年のJPS展にて祖父母孝行が間に合った私としては、勝手ながら心は穏やかなほうである。

それ以上に気掛かりなのは長男である私の父の心境だ。

だからと言って私に今から出来ることの見当は付かないので、せめて静かに見守りたいと思う。

ただ、先述のJPS展へ出展した『逢える日』の撮影当時に、併せて父と祖父の2ショットも丁寧に撮っていた。

その後にそれを大きく伸ばしたプリントを父に贈っている。

あの時の私は様々な想いを込めてシャッターを切った。

 公開はしないが、我ながら本当に素晴らしい1枚に仕上げられたと自負している。

いつの日か、2人で一緒にその写真を眺めたい  ―  。

 

いま私の住んでいる街には故郷を思い出せる景色や物も見当たらないが、記憶の中で明瞭に聴き取れる優しい祖父の声と、この初秋の日差しや影の落ち方を含むすべてが、十二分に郷愁を与えてくれる。

時節柄、こうした場合に駆けつけたくとも叶わぬ人がどれほど居ることか。

一貫して言い続けているが、改めてどんな記憶でも自身の財産なのである。

 今年もまた、忘れられない秋となるだろう。

 

「おじいちゃん。へば、また!」

 

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・RICOH GRIII

・PENTAX K-1

・FA 43mm F1.9 Limited

・FA☆ 80-200mm F2.8